土浦駅にある電留基地について

土浦駅の北側、木田余地区の水田を埋め立てて電留基地を造ったのは、今から約40年程前になる。昭和60年につくば市で開催された国際博覧会「つくば万博」の観客輸送のために、急ピッチで造られたもので,時代はJR東日本の前身の国鉄時代に遡る。土地の大半は、茨城県の養魚場として使用されていたものだったので、当初、用地問題は簡単に解決するものとみられていたが、個人所有の水田の取得が困難を極めた。道路等ができるのであれば、地域の活性化につながるが、電留基地は地元の発展とかには全く期待できないばかりか、平坦で広大な水田地帯を大きく分断する巨大な電流留基地は、水田耕作する上で非常に支障をきたす厄介者とされた。当時の農家の人たちは、常磐線の踏切りが近くにある場合は踏切りを利用したが、踏切りが近くにない場合は、電車の安全を確認して、違反は承知の上で常磐線を徒歩で越えて水田に通っていた。それが電留基地という広大な敷地に分断されるので、水田の作業に大変な不便をきたすという理由で、用地買収に頑強に応じようとしなかった。国鉄の担当者は、停車場課長という若いキャリアらしき人物で、用地を担当する老練な課長を激しい言葉で避難し、用地の確保を急いでいた。当時、TXはもちろんなかったし、道路状況もいまだ不便な状態だったので、万博会場であるつくば市への観客輸送は土浦駅を頼るしかなかった。万博関連の土浦駅利用者は数百万に上ると予想され、万博成功は、如何にスムースに観客を輸送できるかにかかっていた。
万博開催の日時は迫ってくるし、大掛かりな工事は相当な日数を要する大工事である。停車場課長の悩みは、日々相当に深かいものがあったようで、地元の茨城県や土浦市にも用地取得の協力要請が何回もあった。
当時、土浦市都市計画部長を務めていた人物が、かの有名な鈴木勝男氏であった。鈴木氏は田村台地(おおつ野)や木田余東台の区画整理事業、高架道路、荒木田線等々の難事業を成し遂げた部長として功績のあった人で、その鈴木部長から木田余地区の該当する地権者への説得交渉に同席するよう要請を受けた。地元でもあり、当時、副議長でもあり、鈴木氏からの要請を受けないという選択肢はなかった。
それから毎晩、鈴木氏と二人で地権者宅を訪問して、本事業の重要性を説明し、理解を得る努力をした。丁度、冬の寒い季節の頃だったと思うが、農家の家は大きくて、空間が広くて、土間も広く、勿論エアコンがない時代だ。従って寒い。座敷に上げてもらい、炬燵でお茶をすすり乍ら、何日も説得工作を続けた。冬だったので夜は長い。熱心に話し合って、了解に達したころは、朝の日差しが座敷に差し込んできたことも度々だった。
農家の雨戸は木製で、節穴が所々にあってその節穴から、丸い朝の日差しが障子にうつったのを懐かしく思い出す。その電留基地があったから、TX延伸が土浦駅に決まったことは感無量である。確かに終電の駅に電留基地がない場合、電車を格納する場所がない。従って、TX実現のために電留基地は絶対必要条件なのである。

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