Q&Aでうかがう小野治のプロフィール
Q:
小野さんのプロフィールについて質問したいと思い ます。ではまず生い立ちから小学生時代にかけての小野少年についておしえてください。
A 小野:
土浦市木田余町に生まれました。
土浦市は昭和15年に隣接する真鍋町と合併し、この年11月3日、土浦市としてスタートをしました。
人口35,567人、全国で1744番目の市となりました。
この頃の市街地は旧城下町の特色を強く残しており、特に道路は屈曲が多く、やっと昭和9年に旧6号国道が完成し、唯一の幹線道路として活用されていました。
今のモール505の所は川口川という川幅の広い川で、満々たる水をたたえていたものですが、やがて埋め立てられ、市営駐車場としてショッピングに大きな役割を果して来 ました。
昭和60年のつくば科学博開催時に、土浦駅から会場までの顧客輸送用に高架 道が建設され、現状の姿になりました。
小学校は真鍋小学校、友人は多く、いつも大勢で裏山に登ったり、祖父が丹精した栗畑で栗拾いを手伝ったり、筍堀りや、山芋堀りをしたものです。
将来はプロ野球の選手になる夢をいだいており、母の作った布製のグローブで楽しんだことを記憶しております。小学校3年生の時からレギュラーでした。
その後、祖父に皮 のグローブを買ってもらって飛び上がって喜んだのを覚えております。
Q:
今では布の野球グローブは聞くことはないお話で、また小学校4.5.6年生をさしおいて3年生からレギュラーということは、小野さんはとても運動神経の良いスポーツマンであることがうかがえます。
中学、高校ではどうでしたか。
A 小野:
土浦二中、土浦一高に進学後も野球部に属し、元阪神タイガース監督の安藤選手とはずっと一緒にプレーしました。
土浦二中3年生の時に新聞社の取材用ヘリコプターが二中の校庭に立ち寄った時、全校生徒を代表して乗った事が強烈な思い出として残っています。
なにしろ当時ヘリコプター等は見た事もなかったのですから。
また、当時土浦一高野球部コーチであった現常総学院監督の木内さんにはずい分厳しく鍛えられました。
それ以外の思い出は、二中在学中、県内初の剣道初段に合格した事です。
Q:
中学、高校と野球部に所属しましたが、野球部から学ぶものは何でありましたか。
A 小野:
当時の先輩後輩の厳しい上下関係に不満を感じた時もありましたが、その後の社会生活を送る上で、部活動で体験した事は、何ものにも変え難い貴重なものになっています。
今、問題になっている様々な人間関係について云えば、我々の頃は、例えば親と子、上司と部下、大人と子供といったものには、一つの節度があって、自然な情感のうちに大抵の事は了解されていたものです。
社会構造が濃密な人間関係にあったから言葉にしなくても「以心伝心」ですぐに分かりあえたし、先輩がどんな無理な要求をしたとしても不満は残らなかった。
自分の為を思ってくれている、というのがはっきりと伝わってきていましたから。
そうゆうみずみずしい環境を持った社会を再生していくのが我々の責任だと痛感しています。
Q:
高校卒業後について、お話ししていただけないでしょうか。
A 小野:
高校卒業後、長男であるため大学進学をあきらめ、 家の農業を手伝っておりましたが、自分の人生はこのままでいいのかと自問、自答する毎 日 でもありました。
また、このころから市政に興味をもちはじめた時期でもあります。
昭和37年に、日立電線土浦工場の進出があり、日立電線側から地元と工場のパイプ役がほしいとの要望で私に白羽の矢が立ち、これが自分の進む道 かなと思い入社しました。
入社後総務課に所属し庶務関係の仕事に従事しました。
Q:
会社員として日立電線から学んだことについて教えていただけますか。
A 小野:
組織の動かし方や、組織のもつ総合力の効果的な活用とか、経済の仕組み、国際化、情報化社会等々社会生活 の全てを学んだと思っております。
特に民間会社の不況時の対応はきわめて現実的であり、例えば 紙、電話、 電気、水道の使用などその他数えられぬほどの徹底した節約による無駄の排除はたいへんなものです。
電話などはどんな用事でも3分ですませろと教育されました。
又、企業は常に進化し続けないと滅びるという事です。
新製品・新技術の開発、新規顧客の開拓と毎日が真剣勝負でした。
象は蟻一匹を殺すのにも全体重を片足にかけて踏み潰すと云います。
従って、どんな小さな事でも全力投球したものです。
唯、大事を成そうとする時は、多少薄ぼんやりしていた方がよいような気もします。
鋭さを表面に出していくと、回りの人々から警戒されて、余計なエネルギーを使う事になるからです。