コミュニケーションを進んでつくろう

時期はずれの話ではあるが、桜の花を日本人がひとしく好むのは今さら言うまでもない。本居宣長は「しきしまのやまと心を人とわば 朝日ににほふ山ざくらばな」と詠んだ。なぜ多くの日本人が桜を好きなのかについては、いろいろと意見の分かれるところであるが、たぶん花の美しさに気品があることが第一であろうと思う。そしてまた、優雅であることが日本人の美的感覚に訴えるのだと思う。西洋人が好むバラは、甘美の陰にとげを隠している。桜はその美しい粧いの下にとげや毒を持っていない。色合いは決して華美ではなく、その淡い香りには飽きることがない。ほとんどの日本人は、春桜前線が沖縄からだんだん北上してくると、「今年の花見はどこにしようか」などという話題でもちきりになる。道を歩いていて、あまり普段は会話をするような仲の人でなくても「桜が咲いてきましたね」「今年は開花が早いそうですよ」などと言う挨拶代わりを入り口にして、お互いに会話を楽しみ付き合いを深めていく。昔はこうゆう会話を通じて退屈な日常を、楽しくすごしていく知恵を持っていたように思う。
それに比べて現代社会は、コンビニで買い物をしても会話どころかバーコードと、決まり決まったマニュアルでの接客だし、パソコンの電子メールでは季節の挨拶もなく、敬語も謙譲語もない。まして国会で教育を語る政治家も日本語の力がない。日中会談での菅首相は官僚の書いたメモを棒読みしていた。さすがに呆れた視聴者が「新あだ名 進呈します メモ菅と」。 最も言葉を大事にすべき政治家が、この始末と言うのは憂いに耐えない。どんどん生きた言葉が死んでいっているような気がする。
日本には素晴らしい四季があり、下手なつくりものに惑わされなくとも、花を愛でたり、月を眺めたり、しんしんと降る雪に情緒を感じたり、退屈しないですむようになっていて、日々の暮らしや人間関係を潤いのあるものにしてきた。挨拶と言葉を大事にすればコミュニケーション等と言うものはいくらでも活発になるものだと思う。
夫婦の間でも大事なことで、奥方が「桜がきれいだね」と言ったら、「ほんとにきれいだ」とちゃんと応えることだ。間違っても「それがどうした」といってしまったら会話は成立しない。事と次第によってはえらいことになる。しかしながら先日、庭師が入ったばかりの庭の樹木を眺めながら、「ずいぶんこの松ノ木は幹が太くなって、枝ぶりもよくなったなあ」と家内に声をかけたら、「それ、槙や槙。松も槙も区別がつかないの」ときた。間違っていても、賑やかな会話が生まれ、しばらくの間近所の人と妻の会話の中にそれが話題になった。

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