政治家不信
東京都の知事選が終わったが、政策論争は不発だった。我が国はさまざまな危険に直面し続ける中で、国民の気持ちが政治から離れて久しい。東京都の知事選は期待したのだが、全く低次元の選挙戦であり、多くの都民は期待外れであったと思う。
一方、国会に目を転じると政党が政策本位で形成されておらず、権力闘争による合従連衝の産物に過ぎないのが、国民の賢明な選択を妨げているように思われる。
各党とも異種の政策が混在し、時に政党内の力関係の変化に伴って、政党の方針が大きく変容する。これを前提にして、小選挙区制や比例代表制で政党を賢く選べというのは、木に縁りて魚を求むる類のことではなかろうか。小選挙区制は、国民から候補者の資質によって選ぶ権利を奪った。衆院選は政権選挙であり、政党本位で投票せざるを得ず、一党一人の小選挙区制では、どんな候補者でも選択の余地はない。その結果、政権政党は選べるが、選ばれた個々の議員の資質には大いに疑問が残る。
政党の質、議会のレベルを決する上で、極めて重要な要素である「人物選定」が出来ないような選挙制度は、再検討されるべきであると思う。特に世襲議員の問題もある。
かって、コロナ禍において、国民に自粛を求めながら銀座で遊び歩き、銀座三兄弟と揶揄された中の一人に、父親が政治家でなければ、政治を志すこともなかろうという人物もいた。理念もなければ、理想もあるとは到底思えないような人物で、こうゆう人物を政治家にしてしまう制度設計そのものが間違っている。