待機児童ゼロが果たして良いのか
厚生労働省が保育ニーズのピークを迎える29年度末までに、40万人分の保育の受け皿を確保する「待機児童解消加速化プラン」を進めていると新聞にあった。 以前から母親にとって、かけがえのない我が子を、保育所に預けてまでしなければならないほどの重要な仕事があるのだろうかと思っている。
小さい子供にも感情はある。寂しかったり、不安だったりした時「親にそばにいて欲しい」という気持ちは誰にだってあったはずだ。 そんな気持ちを他人の優しさで、埋め合わせ出来るものだろうか、はなはだ疑問である。 我が家にも孫が毎日のように来る。 娘が子育てに取り組んでいるが、見ていて実に大変だと思う。 まだ一歳半の幼い幼児は、一日中べたべたと母親にくっついている。 夜もなかなか寝付かないとのこと。 寝たと思ったら夜泣きで起こされる。 見ていて重労働だし、これを仕事に例えるなら、これ以上の重要な仕事はないというのが実感だ。
そんな子育てを、仕事があるからと言って他人に委ねると云う事は、子供にとっては不本意だろうと思う。 最低でも子供が学校へ上がるまでは、母親は家にいるか、家で出来る仕事をするのが自然である。
幼い時から、精神的な我慢を強いられる子供たちが増加する社会と言うものは、本当に「幸福な社会であり」、子供にとって「思いやりのある社会」となるのだろうか。
ある結婚式で聞いたスピーチを今でも覚えている。
「若者を評する際に、育ちが良いとか、悪いなどと申しますが、何を持って判断するのか。 それはその若者が、幼年期にどれだけ質の良い愛情を受けて、育てられたかによってきまると考えている。 事情があって父親か母親の片方がいない家庭でも、代わりに愛情を注いでくれる祖父母、親類の方々、隣人などに囲まれていればそれで十分。 最も大事なのは愛情の量ではなく質である。 猫かわいがりではなく、厳しい躾をするのも愛情で、質の良い愛情を注がれた子供は、必ず育ちの良い若者になるものだ」。 その通りだと思う。
育ちの良い子供は、いじめ等はしないのではないだろうか。 いじめっ子は、たとえ金持ちの子でも育ちが悪いのである。 子供を持つ親は、自分の子は質の良い愛情にくるまれて育っているのか、改めて考えることが必要だと思う。 そう考えると、子供を保育所に預けて外で働くなどと云う事は言語道断である。