大連、旅順、二〇三高地を訪ねる

先月末から今月のはじめにかけて、中国の大連市を訪ねる機会があった。歴史研究会の仲間七人との旅である。目的は日露戦争の痕跡を、この目で確かめて見てみたいという誘惑に駆られたと言うことである。大連市はかって、日本人が二十万人ぐらい住んでいたそうで、旧日本人街があり、戸建ての住宅が数多く残っている。中山通りや、中山公園もそのままである。安倍元総理の友人が河豚料理店を経営していてかなり繁盛しているらしい。驚いたのは上野駅の外観と寸分違わぬ大連駅舎や、築百年を超えて、尚、立派なたたずまいを誇る大和ホテル、元満鉄本社、等が当時のままの状態で今も使われている。大和ホテルは中曽根、竹下、村山氏など歴代総理が宿泊しており、その写真がホールに掲げられている。村山氏は両親が元満鉄本社に勤務していたと言う関係でここえ来るらしい。大和ホテルは改修計画があるとかで、目下資金難に悩んでおりせっかくなので白檀の置物を購入し協力をすることにした。本当かどうかは分からないが、大和ホテルの一室に、愛新覚羅溥儀の執務室があり、そこにあったものだという。満鉄の代表的な蒸気機関車である「アジア号」は、車輪の半径が二メートルという巨大なものである。「東洋のパリ」と呼ばれた文化都市・大連、建築技術の粋を凝らした乗り継ぎ駅・奉天、満鉄撮影所のあった映画の都・新京。それらを結んでいたのが満州鉄道である。「アジア号」は、今は保存されているだけだが、日本へ運んで徹底的に修理して、観光目的のために走らせたらどうかと言う提案をしてみた。
ここで我々は満州とはなんぞやという疑問にぶつかった。我々年代は、満州と言う言葉は耳にするが、その実態についてはほとんど知らない。調べてみると興味深い事実が分かってきた。この地域はアジア大陸の東部に位置していて、もともとは漢民族の領域ではなかった。紀元前から幾多の変遷を経て、やがて漢民族の版図になったり、離れたり、高句麗とくっ付いたりした。七世紀の末ごろ、南満州に本拠を置く渤海帝国が生まれ、平安時代の日本と国交をもったりした。その後モンゴル人の元帝国の支配下に入り、それに次ぐ明帝国となる。明が衰えると、女真族が明を滅ぼして清帝国を立て、その清が日本と日清戦争を起こして敗れる。やがて、ロシアが執拗に侵略をくりかえし、ついに満州を占領し居座ってしまった。当時のロシアは「満州を占領しただけでは何もならない。朝鮮も、この際取っておくべきだ」と言うのがニコライ二世の考え方だった。やがてロシアは朝鮮進出を始める。日本は、満州におけるロシアを認めるかわりに、朝鮮に手を出さないようにすることをロシアに要求した。ロシアはこれを無視し、朝鮮の軍事利用の禁止と三十九度以北の中立化を求めて兵力を満州南部に移動させた。結果満州を戦場として日露戦争が始まったと言うことのようである。日露戦争で思いもかけず大勝利した日本は、やがて国を挙げて満州経営に乗り出すことになり、多くの日本人が大陸に出てゆくことになる。                                  以下次号

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