環境について
それにしても周りを見渡せば、我々は環境をずいぶん粗末にしてきた。世界的にも、地球環境を守ろうという動きは高まっているが、アメリカがパリ協定を離脱するように、中国が発展途上国だと言い張るように、いざとなるとそれぞれの国のエゴがむき出しになって、なかなか調整がつき難い様子だ。文明の進展が産業の営みを飛躍的に拡大し、その利益によって、さらに文明が進んでいくという状況が、豊かな自然に取り囲まれている発展途上国にまで及んでいるのだから、それに歯止めをかけるのは、貧しい昔に帰れという事でもあって、それでいいという人間などいる筈がなく、意見が纏らなくて当然だと思う。それだからといって、このまま人類が文明的営みを続けていけば、地球環境が無残な状態になるのは、たしかに時間の問題だろう。それではどうすればいいのか。
余生残り少ない自分達は、何とか生活環境の大きな変化までは、生きながらえることはあるまいから、それでいいとしても、将来ある若い人が、それでいいはずがない。であるとすれば、若い人には気の毒でもあるが、生活様式を見直してもらうしかあるまい。そう云えば、昔は厳しい躾というものが、世の中にちやんとあった。自分たちは、そのような躾の中で子供時代を過ごして来た。今はそれがない。それを復活するのが良いのではと思う。親から受けた躾については、いろいろなことが思い出される。箸の上げ下ろしと云うが、食事のマナーは云うまでもなく、人様に対する挨拶、掃除の仕方、靴の磨き方、自分のことを自分でやるための様々なノウハウから、友達との付き合い方まで、実に多くのことを、子供時分に親から、手厳しく躾けられた。なかんずく、最も頭の中にしみついて今も消えずに残っているのは、「もったいない」という言葉だ。この言葉を辞書で引くと、「値打ちが十分に発揮されずに終わるのが惜しい」とあるように、まだまだ使えるものを捨てる行為をいましめるもので、食事の時に皿の上のものを残せば、直ちに「もったいない」という言葉が飛んできたし、短くなった鉛筆も、もったいないからサックをつけて、長くして3センチになるまで捨てる事を許されなかったものだ。靴下でも、シャッツでも、ツギがあたっているものは、むしろ誇らしいものであって、汚れてもいなければ、肩身の狭い思いなどしなかった。いまは、粗大ごみと称してポンポン家具を捨てるが、あんな恐ろしいことは、どんな、金持ちの家でも許されなかった。だいだいゴミなんてものは、昔はほんの少ししか出なかった。今でいう生ゴミは、昔だったら、それこそ「もったいない」の一言で捨てる事が許されず、おそらく今と昔を比べたら10対1位の割合だったのではあるまいか。
あの頃の「もったいない」の感覚で云えば、いま皆が当たり前のように乗り回している「車」なんか、まさにもったいないの極みだろうし、電機やガスにしても、今のような使い方をする嫁さんがいたら、姑から大目玉を食うにきまっている。あの石油ショックの時、日本の省エネ効果は世界一だったそうだが、あるいは身についた「もったいない」感覚が蘇ったそのせいかと思う。このもったいない精神こそ、実は地球環境問題に対する、最も有効な歯止め策なのかもしれないと密かに思っている。