大人の責任
ここ最近、子供に対する虐待のニュースに接することが多くなった。 なんとも不可解な親達が出現したのだ。 抵抗することもできない自分の幼子を、虐めぬいて死に至らしめるという酷い話である。 親の資格がない人間が親になっている。 どうにかならぬものかと痛切に思う。
鶏の親子は、卵が先か鶏が先かとよく話題になるが、この話を人間に当てはめると、人が生まれたときには、必ず親がいて、またその親がいて、子供は親や社会から、様々なことを教えられ、学びつつ育っていく。 そして大人になれば、今度は自分が親として、社会の一員として子供を教え、育てる立場に立つ。
戦後70年を超えて迎えた新春。 その日本の国の大人である我々の大半は、年齢によってある程度の差はあるものの、誰もが混乱と貧困の中で苦労しつつ、懸命に復興再建に取り組む親達の姿を見ながら育ってきた。 そして今、そのお陰で豊かになった社会の中で、それぞれが子供や孫を育てる立場に立っている。
子供たちをよりよき大人に育てるのは、先に大人になった者のつとめである。 その大切な責任を、お互いに我々は、どれだけ果たしているであろうか。 少なくても,自分たちが親の世代に見てきた懸命さ以上のものを、子供たちに示し、与え得ているであろうか。
虐待のニュースに接するたびに、家庭で学校で社会生活で、今、我々大人の責任が、きわめて厳しく問われているような気がしてならない。
今の日本の現状から考えて、どうゆう子供に育てるか、ということは重要だ。 人生というものは、期待通りにならないのが普通だ。 それを人生は思い通りになって当然、 それができないのは、政治や制度が悪いからだ。 途中に悪い人がいたからだ、と教えるのが最近の風潮らしい。 子供を育てるのには、予期できる不幸や、予期せぬ小さな不幸に強い子を、育てるということは重要だ。