表現の自由とは
明治時代、鹿鳴館でダンスをする日本人の姿を、西洋人はどう捉えていたか参考になる絵がある。 フランス人のピゴーが描いた風刺画だ。 鏡に向かっている洋装の夫婦を描いている絵であるが、 鏡の中に写っている人物は猿である。 体格や体型まであげつらって、日本人を揶揄しているのだ。
最初はニヤニヤしながら見ていたのだが、だんだん腹が立ってきて、「この野郎ー」と思わず叫びたくなった。 目の前にいたらタダでは済ませないと一瞬だが思った。
フランスで起きた、イスラム過激派のパリ週刊誌襲撃テロ事件を擁護する訳では全くないが、異教徒の神の風刺をわざわざ刺激的に行使するのは、どう考えても行き過ぎではないかと思う。
その結果は、表現された相手方を深く傷つけ、場合によっては反撃を食らう事は、自分の経験からも想定できる。 確かに表現の自由は守らなければなるまい。 しかしながら表現の自由とは、西洋諸国で言うほど、普遍的で無条件に擁護されるべき価値があるのだろうか疑問である。
イスラム教を信じる人たちは、神の教えに従った生活を至上のものとしている。 従って、彼らは「自由」とは、精々その中におさまるものだと思っている筈だ。 故に、イスラムの価値観は、信仰と規律が中心になる。 故に、イスラムの価値観は、西洋流の「自由」とは対立することになる。
「表現の自由とは」その表現の仕方と内容において、いわゆる常識ある表現を守るべきだ。 「表現の自由」の絶対化など、あってはならない。
しかしながら、パリの事件は官民挙げてこれを非難し、テロと戦う姿勢を見せるべきだろう。