木田余について(2)

木田余には木田余城跡が歴然としてある。 城主は信太氏であった。 城のあった場所は、常磐線の土浦駅よりやや水戸側に寄ったところで、JRの電留基地の南側の水田の中にある。 典型的な平城で、電留基地が出来る前までは、本丸跡だけがわずかに畑地として残っている他、近くに信太氏の墓と供養のために建てられた、五輪の塔三基が祭られているのが現存している。 周辺は一面の蓮根畑で、収穫時に深く掘り下げると、時々刀らしきものが入った石棺等が出たこともあったらしい。
木田余城最後の城主は信太伊勢守範宗であるが、彼は相当に武芸に秀た人物であったらしい。 当時は、幕府の勢力が極めて強力な時代であり、「武家諸法度」第一条に「文武弓馬の道、もっぱらあい嗜むべきこと」とあるように教養と同時に、武道も重んじられていた。 信田伊勢守は、武道の達人だったようで、あまりにも強すぎたために、いつも周りの城主に狙われていたようだ。 土浦城主(現在の亀城公園)の菅谷勝貞も信太伊勢守を滅ぼさないと、いつかは自分がやられるという危機感を持っていたようで、日頃から隙を窺っていたが、天文234年(1554年)8月、信太伊勢守を手野館城へ月見に誘った。 やがて宴たけなわになり、信太伊勢守が酒の酔いに足元をふらつかせながら、単身手洗いに行き、用を済ませて出てきたときに、不意に切りつけた。 これには、さすがの豪勇の伊勢守も抗しきれず、ついに一命を落としたと言われている。
子供のころ、近所の爺さんたちからよく聞かされたのだが、それ以来、木田余と手野の間にある水量豊かな境川に、今まで見たこともないような大きな源氏ホタルが飛び交うようになった。 それを見た土地の人達は、信太伊勢守の怨念が乗り移った 「境川の怨念蛍」 と呼び、今もって言い伝えられている。