木田余について(3)
木田余城は、天正6年(1578年)に佐竹方の梶原正影に攻められて落城し、佐竹義重の命により濠も埋められて廃城になった。 木田余城に隣接してあった木田山宝積寺は、常磐線開通により、機関車の石炭の飛び火により焼失してしまい、現在地に移った。 寺の敷地内にあった檀家の墓地は、地元の人が千元の坂とよんでいる急な坂道を登った台地の一角に移転した。 この墓地の南側の崖地は、急斜面なため、がけ崩れの危険が予測されるところから、現在国において崖地の整備作業が進められている。 寺の文化財である六地蔵灯篭は、無事に保管され境内に建立された。 この六地蔵灯篭は、信太伊勢守が父親の供養のために、鈴の宮八幡宮に奉納したものだそうだが、伊勢守が誘殺された後、しばらくの間、行方不明になっていたいた。 関係者が八方手をつくして探した結果、近所の農家の漬物石として利用されているのが発見され無事に戻った。
宝積寺は毎年、地元の子供たちを対象に節分祭を催している。 今年も子供たちが集まりやすいように、1月29日の日曜日に節分祭を実施した。 子供たちの目的は、今をときめく大関高安関が来るというので、一緒に写真も撮りたいし、握手もしたいという事で、なんと約千人近い大観衆になってしまった。 問題は子供たちより大人の方が興奮してしまい、子供たちの楽しみが奪われてしまった感があることだ。 来年もまた高安関は来てくれることになっている。 地元の新しい名物にするべく関係者一同、多いに張り切って節分祭にさらなる彩りを加えるべく対策を練っている。