教育と強制

  連日のように若者がスーパーや飲食店等で、冷凍庫のアイスの上に寝そべったり、ピザを顔に塗ったり、挙句の果てに、パトカーの屋根に登ったり、している写真をネットに乗せて得意になっているニュースがひっきりなしだ。 
今世間に流通しているものは、他をおもんばかるよりも、自分の側をおもんばかることを優先する流儀だ。 ついこの間までの日本には、そうゆう自己中心を恥ずかしいと思う道徳的感情が機能していた。 今やそれが衰微の極みにいたろうとしている。 誠に残念なことである。 教育を疎かにしてきた報いだろうと思う。
戦後の日本人は、「強制」を教育現場に持ち込むことに非常に憶病になってきた。 
ところで、子供の立場にたってみれば、強制されないのは手抜きをされたと思っているのではないかと云う気がしてしょうがない。  主体性の尊重という美名のもとに、放って置かれると思っているのではないか。 彼らは心の奥深いところで、そう思っているのではないか、と云う気がするのである。
物を習い、身につけるには、それぞれの適切な時期があるものだ。 この時期を外すと手遅れになってしまって、取り返しがつかなくなるものだ。 自由と云う名のもとに捨てて置かれ、もはや取り返しがつかなくなった子供たちが、若者になって非行という形で大人たちに復讐しているのかもしれない。
幼児に対しての躾は、常に強制の姿勢が必要だ。 判断力のない子供に、自主性もヘチマもあったものではない。 
しかしながら、年齢に応じてやがて強制の場面は減っていく。 教育の最終目標は、自主性を育むことである。 強制されなくても、自ら判断し、最もよい決定を下せるような人格を形成するのが、教育の目指すところである。 
子供jに何かを強制するにあたっては、強制する側、即ち親や教師に揺るぎない信念があるかどうかできまる。 人間は、かく生きるべきと云う、歴史と伝統に裏打ちされた道徳観や、夢や、希望、そして自分が強制することの必要性を理解させるための、自信と自尊心があることが大切である。
日本人は戦後68年間にわたって自尊心を失ってきた。 これを取り戻すのに、この先68年かかるかもしれない。 子供に何かを強制できる人間として、大人の方で目覚めなければならないと思う。