再利用の徹底
江戸は「江戸幕府のお膝元」の大消費地として発展し、1840年ごろには、人口100万人と推定される世界最大の都市に成長していたようだ。家康が幕府を開いた数年後、ドン・ロドリコというスペイン人が江戸を見物して「日本見聞録」を書いているが、「江戸の町は、きれいで清潔である。」と驚いている。幕末にイギリスの初代日本公使となったオルコックという人も「江戸の道筋はよく整理されており、私がかって訪れたアジアやヨーロッパの各都市と比べると、はるかにきれいである」と書いている。これらの言葉から察すると、江戸の町は世界屈指の文化都市であったことが窺い知れる。
もちろん、人口100万人の大都市だから、ゴミも大量に出たであろうとは想像する。人目につかなかったのは、幕府の処置が適切であったこともあろうが、日本人の清潔好きな性格が、ゴミを目立たないように処理する工夫を生み出していたのであろう。今でも東京の下町を歩くと、誰でも経験することだが、小さな路地も隅々まできれいに清掃が行き届いており、また打ち水がしてあったり、鉢植えの草花が可憐な彩を添えている風景に出会う。
とにかく、現代に比べて江戸時代は、人々の工夫によりゴミの量は極めて少なかったと思われるが、ほとんどの品物がリサイクルされていたのである。たとえば着物について考えてみる。今では死語となっているが、着物などを洗い張りをする風景は日常だった。これは仕立て直して何度でも着る。最後には古着屋に売る。江戸の町には古着屋の市があり、そこへ行けば豪華な打掛から股引まですべて揃っていた。古傘も売る。買い取った業者は修理して再度売りに出す。張ってあった油紙は味噌、漬物、魚などの包み紙に利用する。さらに使い捨てられた屑紙は、拾い集めてもう一度すき返して利用した。したがって幕末には、江戸に紙屑問屋が200軒もあったそうだ。屑屋の従業員だけでも数千人いたらしい。江戸中期にはこのリサイクル・システムが完全に出来上がっていて、道端にゴミ屑などはなかったという事がうなずけられる。
同様に金属類の回収も盛んで、八代将軍吉宗の頃には処理業者が1,100人を数えたと言われている。
利用可能なものは徹底的に再利用し続けるのが、江戸のゴミ処理の特徴である。我々の時代は、ごみ箱も単なる「護美箱」ではなく、「五味箱」と考える時代になったと思う。甘い、辛い、酸い、苦い、塩辛いに相当する多くの味の宝庫がゴミ箱であると発想的要因の違いはあるが、我々は大いに反省して江戸の人たちの考え方を参考にしたらどうだろうと思う。再利用の徹底である。