土浦の誇り(3)
土浦には近世の教育に関する有力な文化財として、中央一丁目の琴平神社境内に現存する退筆塚の碑が有名である。 これは市内にあったといわれる16の寺小屋を代表する、沼尻墨僊の遺徳をたたえた記念碑だ。
徳川時代は、幕府や藩の法度・触書・高札・などを通して、政策の徹底や、貨幣経済の発展に伴って、読み、書き、そろばんの必要性がもたらされはじめた。 したがって一般人も必要に迫られて生活に密着した実際的な教育が必要となり、それを担当したのが寺小屋である。 そのうちで、もっとも優れものといわれているのが沼尻墨僊の寺小屋だ。 沼尻墨僊は、極めて多種多芸の人で天文地理に精通した、どちらかと云うと技術系の人のように思えるのだが、一方で漢詩をよくし、書道、絵画にも優れた才能を発揮していたようだ。 1803年に中央一丁目「旧中城町」の琴平神社のところにあった自宅に寺小屋を開業した。 「性温厚篤実、居常に寡黙にして才能を誇らず、来たり学ぶものあらば、諄々としてこれを教え、必ず二回ずつ反復するを常とした」と言われている。
墨僊の寺小屋は、最初「時習斎」と称していたが、のちに「天章堂」と改称した。 墨僊関係の書物によると、入門生徒数は889名、うち男が713名、女が179名とある。 意外に女子の入門者がいるということは、今話題になっているが、女性の活用などと云うものは、当時から既に行われていたということになる。入門者は市内ばかりではなく、遠方よりの入門者も多かった。 当時としては、近隣に並ぶ寺小屋はなかったほどの、隆盛を極めたようである。