躾という字は日本人が作った

 人類の進化というものを考えたとき、サルから人間が今のように知力を備えた生き物になるには、少なくとも40万年くらいかかっているという説がある。 その間、生活環境はどんどん変わっていくが、根源的に変わらないところがあって、 その取り扱いを間違うと根源的な爆発をすることがあるらしい。 原始的な世界においては、父親の権威は暴力的なものに近いほど大きくて、 それで秩序が保たれていた。 現代のように、十代の子供が家庭内暴力をふるうなどということは絶対になかった。 これなどは根源的な誤りの結果なのである。
古今東西、子供にとって父親というのは怖い存在であり、それにまず耐えなければならない。 その訓練ができて、初めて世の中に出て行けるということだ。 ところが今は、父親のほうが甘くて、子供が父親に対して我慢しなければならないという場面が極端に少なくなってきた。 だから、耐える必要がない。そんな子供が大きくなると、、家庭内暴力とか、オヤジ狩りなどということをやったりするのは、 子供の時に必要な世渡りの技術を覚えなかったからである。 
また、躾ということで考えてみると、子供が小学校を終えるくらいまでは、それは何と言っても母親が主役であろう。 朝起きたら「お早うございます」と挨拶をさせることと、食卓には一緒につかせ、「いただきます」と言って、食べ物に対する感謝の念を表して、食べることをさせなければならないと思う。 サッチャー元英国首相は、首相になってからも家族の朝飯は作っていた。 
それくらい、朝飯というのは、母親の重大な任務のはずなのである。 それを拒否して朝飯を作らない母親というのは、云う事を聞かない子供になれとか、だらしない子供になれと、命じているのとほとんど同じようなものである。
躾という字は、見偏に美しいと書くが、これは漢字ではなく日本でつくられた国字だそうだ。 昔から日本人には実に良いセンスがあったということだ。
学校でも躾は絶対に必要なのである。 それを体罰と言ってひと括りにするのは愚かなことだと思う。 生徒が授業をさぼったり、卑怯な行為をしたり、責任を転嫁するなどの行為をした時に注意をするのは当たり前である。 また、みんなが掃除をしているのにやらなかったり、煙草を吸ったり、万引きをしたりしたとき、その行為は悪いと注意をして、それでも違反した時に体罰をすることは極めて重要な教育上の行為である。 殴られる痛みを教えることは重要だ。 それを知ることによって他人の痛みが分かるからだ。
教育関係の組織ばかりでなく、どの組織においてもそうであるが、厳正な処分に及び腰のように見える現状は気になる。 対応の一つ一つが甘く、遅く、ぬるく、組織防衛にばかり気を遣いすぎる。 教師と生徒との間に信頼関係があれば、殴られた生徒は絶対に教師に対して、悪感情は持たないものだ。 その場合、体罰はむしろ極めて有効な行為になろう。 体罰の全否定は反対である。