放射性物質について・・・・絆という言葉は

「絆」という言葉がよく交わされたが、放射性物質について各地の対応は酷いものだ。「絆」どころの話ではない。自分達だけはなんとしても、放射性物質の影響は御免蒙りたい。その意識が透けて見える。
ベントが遅れた結果、放射性物質は拡散した。あれは政府による人災である。放射性物質により、立退きを余儀なくされた人たちの心境を思うと気の毒でならない。
その中でも、京都五山の送り火保存会の話はえげつない。東日本大震災でなぎ倒された岩手県陸前高田市の国の名勝「高田松原」の松でつくった薪を燃やす計画が、二転、三転したあげく中止となった。高田市では神事にかかわる火だから、松を鉈で割って鉋をかけ、被災者がひとつずつ願いを書き込んだ。表皮を削り取っているから放射性物質は出てこないはずだ。
しかしながら、誰かが「セシウム」「ストロンチウム」といった。 とたんに計画が撤回された。 人は一方で「絆」というきれいな口を利きながら、あくまで自分に影響がないということが前提なのだ。
「礼」とは「他人の感情に対する同情的な思いやりの外に現われたるものである」と教えられた。今、世間に流通しているものは、他をおもんばかるよりも、自分の側をおもんばかることを優先する流儀だ。ついこの間までの日本には、そうゆう自己中心を恥ずかしいと思う道徳感情が機能していたはずだ。いまやそれが衰微の極みにいたろうとしている。残念なことである。
風評に過剰に反応し、薪の受け入れがストップしたり、東北産の米や野菜や水産物や牛肉が売れなくなったのは、無責任に不安をあおった結果であり、許されるものではないであろう。
風評には冷静に対処し、被災者の思いを自らのこととして、受け止められる社会を目指そうではないか。