既成概念

吉良上野介といえば、忠臣蔵の芝居以来憎まれ役、敵役の代表となってしまったが、地元の人に言わせれば、なかなかの名君であったという。一方、同じ苗字の吉良の仁吉は、侠客として映画、テレビ等では評判が良いようだが、実際はただの暴れん坊のヤクザにすぎなかったという。何時だったか、かの有名な巌流島の決闘の事実を記した古文書が発見され、それによると双方助太刀は無用との約束にも拘らず、武蔵は数名の弟子を連れて行き、武蔵の一撃で倒れた小次郎が息を吹き返したところを、寄ってたかって殴り殺したという。我々が吉川英治の小説から描いていたイメージとはだいぶ違うようである。
思うに人間というものは、新事実に接しても、いったん頭の中に叩き込まれた観念を変えるという事は、なかなか出来ないものらしい。
特にその事実が、自分にとって都合の悪いものであったり、過去の成功体験に反するような場合は「変えたくない」という意識が働いて、ますます困難なものになる。
人間、年をとるに従って頑迷固陋になっていく所以である。これが上野介や武蔵の評価程度であれば、大した影響はないが、仕事に関することになるとそうはゆかない。明治の実業界の偉人と云われた伊庭貞剛は、事業の進歩発展に最も害をなすものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈であると喝破している。老人は注意役、青年は実行役であるとして、進取開拓の事は、どうしても青年をしてこれにあたらしめねばならぬと云っている。
まもなく新年を迎える。そして令和3年。この令和の2文字の器にどんな中味を盛るかこそ、これからの令和時代に生きる我々に残された課題と云えるのでないか。心を新たにして、柔軟な発想と、豊かな感性の元年として、スタートしたいものである。コロナを乗り越え、オリンピックを成功させ、日本経済を多いに発展させねばならない。

 

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