東海道新幹線の誕生秘話

連休中、何回か東海道新幹線を利用した。今更の話ではないが、新幹線のおかげで、毎回快適な旅行ができることに感謝している。そして、気が付いている人も居ると思うが、JR東京駅の東海道新幹線のホームを下りた壁にある文章に、いつも胸を打たれる。
「東海道新幹線、この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」。普通ならば、ここに開業当時の運輸大臣か、国鉄総裁の名前が続くだろうが、個人名はない。誰の起草なのか、真っすぐで純粋で、目にするたびに鼻の奥がくすぐったくなる。
文献によると、東海道新幹線が議論され始めたのは、昭和30年代であった。当時の鉄道専門家の意見は、時速200キロで走る弾丸列車は、「原理的に不可能」という事だった。その理由は、度々起こる脱線事故の原因は「レールの歪み」にあると考えられていた。たしかに、低速で走行している際には、脱線事故は起きないが、高速を出すとレールの歪みが問題となり、脱線してしまう。これに対して、航空機の研究から身を転じた新参の若手エンジニア達は、「脱線は、スピードが出たときに起きる振動が原因だとして、振動制御によって解決することが可能だ」と主張した。しかしながら、鉄道の社会では、長年、鉄道技術の本流を歩んできた、技術者たちから徹底的に疎んじられて、下請け部門に追い払われ、事態の打開ができないまま過ぎていた。
そこで彼らは、「東京ー大阪3時間の可能性」と銘打ったシンポジウムを実施し、マスコミにこれを取材させて記事にし、世論を「新幹線待望論」に誘導していく作戦を展開した。
これらの記事に目を留めた、当時の十河信二国鉄総裁が、実現へ向けて動き出す。当時、鉄道事業は、勃興する航空産業に対して押され気味で、斜陽産業だと見られていた。
航空機であれば、2時間で行ける東京ー大阪間を、誰が好き好んで7時間もの間、列車に揺られていくのか。鉄道はローカルな移動手段として、その存在意義を縮小させ、長距離の移動は、航空機が主流になると考えられていた矢先で、タイミングもよかった。
その時の十河国鉄総裁の動きは、実に素早かった。国会への説明、世界銀行約款の依頼など、東海道新幹線を実現するための、獅子奮迅の働きをしている。結局、東海道新幹線のプロジェクトにおいては、技術面での現実的な裏付けを行ったのは、むしろ組織の中における若手・中堅層であり、トップである十河国鉄総裁は、その実現に向けて、人脈、金脈での支援をした。
結果的に、古い常識で凝り固まっていた古参の鉄道技術者が、大きな障害になっていた例だが、今、企業にしろ、政治の世界にしろ、いたるところで同じような状況があり、それが日本社会の発展を阻害している、大きな原因になっている。