木田余について(1)

私は歴史が好きである。 最近、地元の歴史について興味を持ちだした。 土浦市にある文化財の中でも、特に興味を覚えるのは、現土浦一中の土浦藩校郁文館の正門と、中央一丁目の琴平神社境内にある退筆塚の碑と、木田余にある信太伊勢守範宗の碑である。 それにしても木田余という地名は、どこに由来するのかと、これまた興味深いものがある。 木田余という地名は、、初めての人にはなかなか「きだまり」と読めないらしく、電報のカナ文字の宛名は「きだよ」とか「きだあまり」といった表現で配達されてくる。 木田余という地名を調べてみると、かってこの地は輸送の手段が水運が中心だったころ、利根川から横利根を経由し、霞ケ浦に物資が運搬されていた時代にさかのぼる。 土浦近辺は昔から神社仏閣が多かったらしく、筑波山神社などを含めると優に百を超える。 当時、これらの神社仏閣を建築するために、大量の木材が必要とされ、もともとこの付近は優良山林が多かったものの、不足する部分は全国各地から、霞ケ浦に運ばれ木田余地先に係留され保管されていた。その様子がまるで木のたまり場のようであったところから、「きだまり」と呼ばれるようになったと言い伝えられている。木田余の地形は、台地と低地に大別され、古くから人々が住んでいたのは低地にあたる。台地に当たる木田余東台は、ここ20年ぐらいの間に、区画整理事業が実施され、現在のように整然とした街並みが完成した。造成工事が進められていた時には、埋蔵文化財(勾玉等々)や住居跡がぞくぞく発見された。このことから考えられるのは、大昔は台地部分が人の住む所で、現在土地の人が住んでいる低地部分は、霞ケ浦であったと推測される。その低地の岸辺に材木が運ばれていたのであろうと思われる。