日本の年中行事はそれぞれ目的がある

孫の753に付き合って町内の神社で、神主に祝詞をあげてもらった。 いいものである。 神社は「地域の氏神」として成立したものだ。 初詣や祭礼は人々の暮らしと深く結び付き日本人の精神的支柱といえる。 日本には子供の行事、(753、お宮参り、お食い初め、成人式) 季節の行事(七夕、お盆、お月見、) 等々 いろいろあるが、どうも現代の日本人には、その持つ意味が正しく伝わっていないような気がする。
日本の年中行事は、季節に合わせて、それぞれ特徴はあるものの、その意味するところは共通している。 子供のこと、家族のこと、祖先のこと、食べるもの、気候、それらの安定安全を望む気持ちの中には、常に自分だけでなく、自分より人をという、他者を思う気持ちが込められている。 つまり、もともと日本人は、利己ではなく、他利を求め、他者と強調し、自然を尊び、健康であることを、最高の価値観としていたのではないかと考えられる。 明治初期に来日したイギリスの詩人アーノルドは「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する」と言っている。 さらに、「地上で天国あるいは極楽に最も近づいている国だ 。神のようにやさしい性質はさらに美しく、その礼儀正しさは謙譲であるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。 これこそ日本を、人生を、生甲斐あらしめるほとんどすべての事に於いて、あらゆる他国より一段と高い地位におくものである」 と幕末から明治にかけて来日した多くの人々が、表現や程度の差こそあれ、類似の観察をして激賞している。
しかしながら最近、女性国会議員が国会のある場所を占拠して、そこを通ろうとする男の国会議員を「セクハラ」と叫んだり、夫婦別姓とかを声高にを叫ぶ人がいる。 そこには国民や、子供の視点等、全く考えていないのだろうと思う。 これは日本人が昔と違って、利己的になったと思って差し支えないということのようだ。 長い間の「人権教育」とでも言うべきものの結果が、日本人の心を破壊したのだろうと思う。 曽野綾子氏が言っていたが、日教組の教師たちは「人権とは要求することだ」といい、「自分が損になることはするな。戦争中はそれによって戦争の走狗となり、現在では、資本主義に奉仕することになるだけだからだ」と言っていたのを思い出した。 先人たちの教育のあり方に思いを致し、謙虚で他人に思いやりの深い、本物の日本人に戻らないとと思う。

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