大震災前の東京は明る過ぎたのだ

大震災の前の東京の夜は、不必要なまでに照明をつけていたのではないかという反省が人々の間に広がっている。拙宅も業者の口車に乗って、いつの間にかエコキュートとかになっていた。したがって今回の停電では、とんでもないほどの不便さを味わされた。門灯から続く玄関までの階段灯も、庭園灯も点かない。真っ暗な中を足元を確かめながら用心しいしい歩いた。飯も食えないし、風呂にもはいれない。そもそも停電があるかも知れないなど、すっぽり頭の中から抜け落ちた生活を送っていたのである。明るいのが当たり前だったのである。
昔は夜になると真っ暗だった。一歩路地に入れば街灯もなかったし、まるで闇そのものだった。家の内外は分け隔てのない闇で、街灯とか門灯とか茶の間とか、人間の領分を示す光が点々と灯っていただけであった。闇は生きながらにして死を容易に仮想できる場所であったし、同時にあらゆる想像の母でもあった。つまり学問に頼らずとも、おのずと哲学をする環境を少なくとも私たちの世代の子供は持っていた。それがいつの間にか明るい世界が当たり前の生活を送っていた。
最近たびたびヨーロッパを旅するようになって気がついたのだが、ヨーロッパの主要都市の夜は東京と比べると格段に暗い。昨年行ったベネチアは、夜の九時を過ぎるといっせいに灯を落とす。夜の散歩をする人が多いのだが、運河の水の上にぽつぽつと街灯の光が、揺れているだけしか明かりがない。
内村鑑三の文章に「浅い日本人」と題したものがある。日本人には何か深さに欠けたところがあり、深く怒り、深く喜ぶことが乏しいという趣旨であった。日本は経済成長と共に、安全対策に重要とばかりに夜を過剰に明るくした。そのせいか、日本人の精神はさらに浅くなった。民主党政権が日本国にも、国民にも、特に今回の被災者にとっても、明らかに間違った政策を重ねているにも拘らず激しく怒ることをしない。民主党政権下の日本は、内政、外交、防衛など、すべてが薄っぺらになってしまったにのである。今回の大震災は、夜の闇は、昼が考えるよりも深いという真理に、日本人を覚醒させることになったのだと思いたい。東京の夜が暗くなったということは、その夜のなかで日本人の精神が、もっと深くなることだということなのである。
石原東京都知事を断然支持する。自販機も自粛するべきだし、パチンコも禁止する等、徹底した政策の実行が、今ほど重要な時はない。

Follow me!