接待の是非

飲食をともにして胸襟を開き、理解を深めて人間関係を築くということは、仕事を円滑に進める上で否定されるべきではないだろうと思う。特に政財界ではある意味、重要なことだ。国のために何事かなさんとする人間が、食卓を挟むことの重大さはよくわかる。法律に触れるとか触れないとか、そんな低次元の話ではない。大の大人が協力して国のため、社会のため、文化のために事物を創造しようとしているのである。少なくともその食卓に個の利益などかけらすらあってはならない。明治維新のゴタゴタ騒ぎの時も「征韓論」を主張する西郷や板垣と対する岩倉、大久保、木戸らが対立したのを、収めたのも料亭政治である。
菅首相の長男が勤務する東北新社と総務省の幹部職員や政治家が、食事を共にしたといって大騒ぎをしているが、その結果が、国民に明らかに損害を与えていれば別だが、そうでなければ、そんなに騒ぐ話ではなかろうと思う。
東北新社が他社に比べて明らかに有利に遇されてたというならともかく、接待の内容が桁外れに高額だとか、高価なワインを飲んだとかなど、しかし、それがそんなに問題なのかとも思う。しかしながら、疑われるようなことは避けるのが賢明だ。経済原則から考えると、接待のような豪華な会食は多いほど景気は良くなる。
仏教の輪廻転生説によると、解脱して仏となったもの以外は、来世六道のどこかに生まれ変わる。生前の行為の善し悪しによっては、地獄道があり、餓鬼道がある。ここに墜ちると、食べ物を口元に持ってきて食べようとすると、火がついて食べることができない。このコースに墜ちる者は生前にわかっている。すなわち美食をする者、食欲旺盛な者である。他人の金で酒ばかり飲んでいるものは餓鬼道に墜ちる予行演習みたいなものである。すべて本人の責任である。
今日批判されているところの官僚主導政治の在り方というものを、私はあながち悪いものだとは思わない。要は官僚たちと、それを取り巻く政治家や企業の人たちの質の問題ではなかろうかとも思う。彼らがみな、国民の負託に対して等量の責任を負っているという自覚を持ってさえいれば、贈収賄にかかわる法律などは不要なのだとさえ思う。供応を受ける者、供する者の間に「賄賂性の認識」があったかなかったか、そんな話は法律というメカニズムばかりに翻弄されるくだらない話である。
誤解を恐れるなら、はなから飯など一緒に食わねばよい。酒など飲む必要はない。己の仕事に自信があるのならば昼日中に役所を訪ね、思うところを正々堂々と述べればよいのである。
政治家とは何か、官僚とは何か、あるいは一国の政治経済を左右する大企業の社員とは何か、ということに考えがいたればなんの問題もなかろうと思う。

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