専門家と素人の常識との関係

 かって東京都知事に美濃部亮吉と云う人がいた。 その美濃部知事の大好きな論理は「一人でも反対があったら橋はかけない」と云うことであった。 しかし、フランツ・フアノンのあの言葉には、後があるのだと知ったのは、それから大分経ってからのことであった。 
「一人でも反対があったら橋をかけない。 その時は皆泳いで渡りましょう」 というのが、完全な意味なのである。 この後半を意図的に切り落とすやり方は、ややもすると公平でない物の見方をするマスコミ等に多く見られる手法である。 
一人の人間の反対が妥当なものなら、泳がないまでもズボンの裾を捲り上げて、皆で川を渡るくらいの気持ちがある時に、美濃部氏の論理は成り立つのである。 
話は少し違うが、作家の堺屋太一氏(内閣官房参与)が、昔こんなことを言っていた。 
「深ければ 即ち狭し」 古代の中国の賢人は(現代の中国人とは違う)、こんな言葉を残している。 けだし名言であろう。 
そして、その逆もまた真であるに違いない。「広ければ 即ち浅し」である。
技術が高度化し、社会が複雑化するに従って、それぞれの分野に必要な知識と経験は多いに深まってきている。 当然、こうした深い知識、経験を持ち得る分野は狭くなる。今日においては、いかなる天才といえども、高度の専門知識を持ち得るのは二、三の分野であろう。 我々凡人にはただ一つの分野でも、高度の専門領域を極めることは容易ではない。
つまり、現代人の多くは、自分の専門とするごく狭い分野に関する深い知識と、専門外の広い分野についてのごく浅い知識とを持っているわけだ。 これを逆の視点からみると、多くの分野は、ごく少数の専門家と圧倒的多数の素人とが擁することになる。 そして、この少数の専門家たちは日進月歩の技術と限りなく複雑化する社会の中で、ますます高度化され、再分化されているのである。 この結果、多くの分野において、素人の想像を絶した専門家だけの世界が形成される。 
しかし世の中には、専門家の実力と知識の深さを簡単に誇示できない分野も沢山ある。 そして、そうゆう分野では、専門家は素人の「常識」的な疑問と反論を解消するのに苦労させられることになる。
目下国民の関心の高い原子力発電施設の安全に関する議論などはその好例である。 このきわめて高度な科学分野で専門的な知識を習得するには、何年もの努力と、多分、幾分かの天分が必要である。 そして、その後に到着した領域では素人の「常識」とは別の理論と概念がある。 これらを簡単に素人に教えることは至難の業であろう。
しかしながら、それにもかかわらず、原子力発電施設の安全性は素人の「常識」から繰り返し繰り返し疑問と反論を投げかけられている。 しかも、世の中の圧倒的多数は素人だから、この「常識」の方が大方の気持ちに入りやすい。 原子力開発の悲劇的な宿命は、こうしたところにあるような気がする。