職業における貴賤の区分け

 「職業に貴賎なし」と口で言いながら、本当のところは常に職業における区分けを行い、しなくてもいい尊敬を払ったリ、一方では、してはならない見下しをしているのが、残念ながら世人というものだと思う。 高校の後輩に小さな工務店をやっている親友だった男がいる。 卒業以来会ったことがなかったが、ある会合で30年ぶりに顔を合わせた。 ほとんどがサラリーマンばかりの中で、その男は一寸目立った存在だった。 短髪で色浅黒く引き締まった精悍な感じで、洒落たジャケットを着ていて、一見、やり手のデザイナーといった感じであった。
「今何をやっているの?」 そう聞くと「相変わらずさ、大工だよ」と言う。 「そうか、丁度いい。ちょっと我が家のリフオームを考えているのだが、やってくれるかい」と言うと二つ返事で引き受けてくれた。 後日打ち合わせのために、しばらくぶりに訪問すると、彼の会社はおよそ工務店といった感じとは違って、白っぽい三階建ての瀟洒なビルだった。 一階はガレージと作業場で、その作業場には木工機械がずらりと並び、働いている若者は大工のイメージとはまったく無縁な、スマートな作業服を着たまるで技術家集団といった印象であった。 二階のオフイスで打ち合わせを始めたのだが、その社長である友人と、そこで働いている7、8人の若者との応答に非常に興味をそそられた。
社長を「大将」と呼んで、何かにつけて指示を受けているそのやり取りを見ていると、その関係はまるでゼミの実習での教授と学生との関係と見紛うばかりといった雰囲気で、学びの作業のように感じられるところが、何ともいえずうらやましい様な雰囲気がある。
「さっき図面を持ってきたあの若いのは、一級建築士で国立一期校出身なんだ。 僕は二期校で二級建築士だけどね」と照れ笑いを浮かべていたが、その表情は自信に満ちており、普通のサラリーマンにはなかなかお目にかかれない光景だと思った。
会社の中や、学校の同窓会などで、卒業した学校や成績だけで優越感に浸っている連中が多いが、問題は卒業した学校や、その時の成績で人生が決まるわけではなく、その後の人生をどう生きたかが重要なのである。 その後の人生を成功させる準備として学校で学ぶので、成績が良かったのを鼻にかけている連中のほとんどがその後の人生を失敗しているのが多い。
この自らを大工と称している後輩の友人は、貴賤に分けるとすれば、まさに「貴」だなと一人ひそかにうなずいた。(諸井薫氏のエッセーを参照)