秀吉と光秀

 豊臣秀吉のスケールの大きさと、明智光秀の真面目で几帳面な性格と、どちらの殿様がいいかという比較の話である。 
織田信長の比叡山焼き打ち事件の時の二人の対応が、この二人の性格を如実に物語っている。 比叡山延暦寺の福定坊という者が、本尊の絵象(元三大師の影像)を背負い、僧たちとともに逃げた。 信長の命令は全員皆殺しである。 ところが福定坊とその一行は一人残らず無事であった。 福定坊一行が逃げる方面を担当した武将は、元三大師というお方は、近江浅井郡(信長の姉、お市の方の夫浅井長政の所領)に生まれられたということを聞いている。 我も長浜にいる以上、一目拝ませてもらえまいかと言って、福定坊に頼み込んだ。 元三大師の絵像の開帳は毎年正月三日ということになっているがとことわって、福定坊はやむなくその要請に応じた。 かの武将は太刀を置き、手を洗い、口をすすいで拝礼し、そのあと福定坊に護衛兵をつけて堅田のほうに落した。
比叡山の伝承では、この武将が筑前守秀吉だということになっている(街道をゆく・叡山の諸道・文芸春秋)。
明智光秀のように性格が几帳面で有能な場合、命令は絶対になってしまう。 洞くつや木の陰に隠れている者も、兵に確認させて一人残らず執拗に探しだして殺した。
秀吉が担当した叡山北部の方面に逃げた多くの者が、助かったと今でも叡山で伝承されている。
秀吉と光秀の人間性を考える上で、この違いは大きな課題を含んでいると思う。 我々の日々の生活に直結する権限を持つ首長は、秀吉型と光秀型とどちらが良いか、判断は我々が考えるところだろう。 

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