旅順・二百三高地へ

大連、旅順、二百三高地と尋ねると、どうしても日露戦争の原因は、満州と朝鮮であると言う思いに駆られる。満州を取ったロシアが、やがて朝鮮を取る。日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮はロシアの所有になっていたことは間違いない。それどころか、日本もロシア領になっていたであろう。遵って日本にとっては、どうしても負けられない一戦であったのがよく分かる。
日露戦争の激戦地として知られる旅順へ行く。旅順港、旅順駅、旅順関東軍司令部などをみて二百三高地へ。二百三高地は、急な坂道を歩いて5,6分も登ると頂上に到達する。旅順港は清朝の末、李鴻章がつくった北洋艦隊の根拠地であったが、日清戦争ののち、ロシアが中国から租借、大軍港と大要塞を建設し整備した。当時、ロシアの極東艦隊は、19万トンという大海上兵力でそのほとんどが旅順港にいた。日露戦争の勝敗を決する重要な戦いであった日本海海戦で、バルチック艦隊をたたくためには旅順港にいるロシアの極東艦隊を撃滅しておく必要がある。旅順港は要塞砲で厳重に固められており、日本艦隊はこの港に簡単に近ずくことが出来ない。そのために旅順港の後背地にある二百三高地を奪い、そこから大砲によってロシアの極東艦隊を全滅させる作戦を展開した。二百三高地と呼ばれるのを聞いてみると、何のことはない海抜203メートルと言うことだそうである。二百三高地から見る旅順港の眺望は素晴らしい。そのとき使用した28サンチ榴弾砲が飾られているが、なるほどここからの攻撃は、きわめて効果的であったろうと想像できる。「庭に一本棗の木」で知られる水師営の会見の歌があるが、樹齢百年以上といわれる「弾丸のあといちじるしい棗の木」が今もある。水師営会見所は、乃木将軍とロシアのステッセル将軍が会見した有名な場所で、水師営とは村の名であり、元は百姓屋であった。中は土間でひなびたテーブルがひとつあるだけである。この粗末なテーブルを囲んで、乃木将軍がステッセル将軍に帯剣を許して歴史的な会談が行われた。水師営会見所は痛みが激しく、修理する費用捻出のために、土産物を買えと言われ、乃木将軍が書いたと言う掛け軸を購入することにする。大和ホテルにしろ水師営にしろ、中国人の逞しい商魂に脱帽するしだいである。
乃木将軍の詩
      山川草木転た荒涼  十里風なまぐさし新戦場 征馬前まず人語らず 金州城外斜陽に立つ
      

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