小中学校の教師は尊敬の対象だ(3)

 ある中堅企業を経営している友人がこんなことを言っていた。 「毎年決算が終わって、納税の書類に代表者としてサインをするとき、つくづく思うのは会社を興してそれを何とか軌道に乗せるために、それこそ夜も昼もないほどあくせくと働き、たいして国の世話にもならずに頑張ってきて、どうやら従業員にも世間並みの給料を払えるようになり、さらに利益の半分近い数億もの巨額な税金を毎年納め続けてきて、その上個人の方の収入はと言えば、5割近くも持っていかれて自分のものと言えば、今だにちっぽけな家一軒だけだ。 それでも国からすれば当たり前の話にしかならない。 従業員だって創業の頃の苦労を知っている連中は、もう、ほとんどいないからこれも当たり前の話。 これで俺がころっと死んだところで、うちくらいの規模の無名の企業では、大新聞の死亡欄にも載るかどうかも分からない。 子供は娘ばかりで皆会社と関係のないところへ片付いてしまったし、そう考えると何のための人生だったのかと空しくなる。 それにひきかえお前は、天皇陛下から勲章を授与され、世間にも知られ、うらやましい限りだ。 縁起でもないけれど、死亡欄にも写真入りで出るんじゃないか。」 としみしじみと述懐していた。
そんなところへ我々風情が載ることはないけれど、新聞やテレビの死亡欄の取りあげ方が、もしも、その人物の生前における社会貢献度の指標をなすものであるとすれば、それははっきりと有名文化人、芸能人偏重であることは疑いない。
テレビにいたっては、二流でも芸能人や芸術家ならその死を報じるが、経済人となると、財界の巨頭でもなければまず取り上げない。 最近でも、ある女優の死を連日のように取り上げているのを見ると、苦々しく思う人も少くあるまい。 この種の人間の死は、世間一般が知りたいニュースだからというかも知れないが、それだけではこの不公平感は拭えない。
戦後、日本の世界史の中で奇跡といわれたほどの成長と繁栄の担い手であったビジネスマンや技術者達は、その成果は評価されても無名であるが故に、一顧だにされずその繁栄の表層の賑わいにしか過ぎない有名芸能人とやらは、死後までその名を残す。 彼らはしかるべき顕彰がされるが、そうでない人間には格別の仕組みはない。 これだから偏ったいわれない尊敬現象がはびこるのだが、考えてみれば、ああゆう人達は、尊重されるべき存在であって、尊敬までしなくてもいいのである。
作今の教育現場を見て感じるのは、家庭教育に頼れない小中学校の教師の多くは、公の意識を持って献身的に児童生徒たちのために、行動しているのが読み取れる場合が多々ある。 大げさかもしれないが、教師達の行動の中に国家というものの存在を実感することさえある。 そうゆう意味で、今まさに尊敬を必要とするのは、小中学校の教師たちなのである。                            (参考・・・・・諸井薫エッセー集)                                                                                                                                                                                                                                          

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