先生は尊敬の対象になるか(2)

 今朝の新聞によると、東大地震研究所などの調査団による誤認が発覚した立川断層帯。 思い込みと確認不足が原因で、結果的には拙速と言われても仕方がないと識者の意見が載っていた。 原発の再稼動をめぐって日本国中が喧しい議論が続いているが、その中で最も権威がありそうなのが、活断層の調査であろう。 何万年前まで遡って、活断層があるから原発は建設できないという調査結果には、何となく胡散臭いと思っていたのだが、彼らにも重大な誤認があるというのがわかった。
ところで世間一般には学者、芸術家、文化人の類は最も尊敬されているかどうかはよくは分からないが、新聞、電波、雑誌などに見る限り、過度に尊敬を強制する風潮がある。 
では、学者とは何か。 コツコツと狭い専門分野の研究に従事し、その研究成果を基に大学で学生に教えているだけのことであるのに、小学校や中学校の先生と違って、どうゆうわけか世間の評価は断然上なのである。 たとえ非常勤講師であったとしても、大学の先生という肩書が、名前の横に着くと世間の見る目が変わり、言葉使いも改まるものらしい。
尊敬してくれるのは、何も庶民ばかりとは限らない。 政府も、国会も、政党も下へは置かないようだ。 有名教授ともなれば諮問機関の委員の口が殺到して、いったい本業の方はどうなっているのだろうかと、心配になるほどだ。 その有名教授だが、なぜ有名かといえば、研究業績抜群だからというのではなく、マスコミに登場機会が多いからだ。 マスコミに登場した学者は一般大衆に向かって、学者の専門の話などしても、受けてはチンプンカンプンに違いないから、非専門の話をすることになる。 例えば経済学者が、政治や社会を論ずれば、彼の専門とは何の関係もないはずなのに、世間はその肩書故に耳を傾ける。 すなわち、学術知識ではなく巧言令色の才によるわけで、そんな器用達者をマスコミが放っておくはずがないから、ますます声がかかる。 かくて、押しも押されもしない有名教授となり、肝心な大学はそっちのけの、何が何だか分からないような明け暮れと相成るのである。
著名ジャーナリストというのも、偉そうにマスコミでものを云うが、彼らは本来早耳で、無専門故に守備範囲が広いことはあるが、それ故にどうしても半可通という弱点が付いて回るのである。ところが少し有名になってくると、大知識人、大言論人を気取らずを得ないのか、半可通であることの後ろめたさを見事に忘れてしまうのである。
このような学者や有名人と比べて、小中学校の先生の方が、はるかに子供を含め、普通の人々に接している故に、世間の常識にあっているし、尊敬するにふさわしいのだ。 
世の中不公平過ぎる。                                                                              参考、諸井薫氏のエッセー

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