先生は尊敬の対象になるか(1)

 学校の先生達は体罰ゼロという難題に追い詰められているようだ。 この問題のために先生たちが委縮してしまって、思い切った生徒指導ができないとなったとしたら、「角をためて牛を殺す」結果になってしまう。 先生方には、それぞれの教育方針に基ずいたやり方で自信を持って、やりたいようにやってもらうことの方が、良いのではないかと常々考えている。
もうかれこれ40年も前の話だが、友人の一人が小学校の教師をしていた。 彼は教育方針をめぐって、何度も校長と衝突した。 運動会で男子に騎馬戦をやらせようとしたところ、校長が反対した。 「俺はどうしてもやりたかった。 子供たちもやりたがって、猛烈に練習したのだが、PTAでも問題にされて、結局つぶされた」と言っていたことがあった。 
彼は、生徒たちに手をあげることもしばしばあった。 男の子が女の子をいじめた時には「貴様、それでも男か」と言って殴りつけた。 怒った親が学校へ怒鳴り込んでくることがあっても彼は「悪いことをしたから殴った」といって、決して引き下がらなかった。 子供たちにも怖がられていたが、しかし、彼が移動するときは、教え子たちが当時の運搬手段のリヤカーを持ってきて、荷物を運んでくれた。 しかも駅ではみんな泣いて見送ってくれた。 いまでも同窓会には必ず呼んでくれるクラスがあって、「先生には何回殴られたか、分からない」などと語り合いながら、それが懐かしい思い出になっている教え子も大勢いるようである。
以上は友人の話であるが、現代は事情がどうも違うらしい。 昔は、先生は子にも親にも尊敬されたが、今は違うということのようだ。 世間は教師の質の低下を言い、技術、情熱、使命感と、いずれも昔に比べて物足りないと口を揃える。 そうかも知れないが、そうでないかも知れない。私の感想を言わせてもらえば、それほどの差があるとも思えない。 昔も教師に不満がなかったわけではないが、あからさまに言わなかっただけだ。 それをあからさまに言うようになったのは、PTAなるものができたからだと思っている。 親が遠慮会釈なしに先生の棚卸をするのを聞けば、子供は尻馬に乗る。 「大人の話に口出すな」と昔は子供を叱ったものだし、第一、子供に聞かせてはならないことは、子供の前では口にしなかった。 子供は学校で見聞きした教師のあれこれを帰って親に言い、親はそれを聞くなり子供の前でいいの悪いのとあげつらう。 挙句の果て、親はPTAでそれを主張し、通らなければ教育委員会でもなんでも出かけていく。モンスターペアレンツとか言われていると聞く。
これで戦々恐々としない教師はいないと思う。 それによって衣食し家族を養わなければならないのは、世間のサラリーマンと少しも違わないからだ。 それを、そんな風にした当の親達が、サラリーマン化したと笑うのだからおかしな話だ。
教師が尊敬を受けなくなったもう一つの理由がある。 親たちの学歴レベルが上がったということだ。戦後、駅弁大学時代に入り、教師と親は一気に横一線に並んだ。 こうなれば教師はタダの人にすぎないから、尊敬を前提とするかっての教師感はどこかへふっとんでしまった。
人間というのは面白いもので、自分が尊敬されていると思うと、その尊敬に値しなければといっそう努め、尊敬を裏切ってはならないと自戒を強めるところがある。 ということは、五の力が七にも八にもなるということである。 とすれば、今の親たちは非常に馬鹿げたことをしているということになる。  教師のことは深く尊敬して、教えを請うという姿勢が、教育の実をあげることになると思う。
そうゆう意味では、今の教師を取り巻く環境は最悪であろう。 

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