大相撲

元関脇貴闘力の大嶽親方が、野球賭博への関与で警察の取調べを受けた。

貴闘力といえば10年前の春場所、幕尻で負け越せば10両陥落か、引退かと言う絶体絶命の瀬戸際で、悲願の優勝をなし遂げフアンの喝采を浴びていたのを思い出す。そのときのテレビインタビューで、汗と涙を一緒にしながら朴訥に受け答えする姿を見て、胸を熱くした記憶がある。
しかしながら、今は残念ながらそれも色あせる思いだ。
大嶽親方といえば、あの伝説的な名横綱、大鵬の娘さんと結婚して大鵬部屋の後継者の立場にある。
大鵬の心境たるや想像するだけで、気の毒を通り越して切なくなる。
大鵬にとって、それこそもったいないの一語に尽きる「世紀の誤審」と騒がれた一番があった。
昭和44年の大阪場所での柏戸との一番である。物言いがつくきわどい勝負は柏戸の勝ちと決まり、横綱大鵬の連勝は45でストップとなった。
しかしながら、テレビ中継のビデオで見ていた我々の眼には、大鵬の足が土俵に残っているのが見えた。
「誤審だ」と大鵬が控える支度部屋に大勢の報道陣が押しかけた。それに対して大鵬はこう答えたと言う。
「横綱は物言いがつく相撲をとってはいけない。自分が悪い」。
横綱も聖人君子ならぬ生身の人間である。誤審に心が乱れなかったはずはない。
大相撲の魅力を「抑制の美学」と評した人がいる。相撲ジャーナリストの杉山邦弘さんである。
まさに感情を胸に封じ込めた大鵬の一言がそれを端的に表していると思う。
こうゆう精神と言うのは、どうゆう環境の中から育成されてくるのであろうか。
大鵬は北海道の摩周湖に近い川湯温泉の中学を出て、営林署で土木作業をしていたところを、二所ノ関部屋のOBの目に留まり昭和31年の夏に入門した。
前途への希望を持って上京したらしいが、上野までの列車には座るところも、寝るところもなかったらしい。
当時はまだ痩せていたから、座席の下にもぐって寝たと後で言っている。入門して80人の大部屋で、それこそ相撲一途に、横綱への道を歩いた努力の人なのである。
今回の野球賭博の関与者は、日本人力士だけらしい。外国人力士は金を稼いで本国に送るために、野球賭博などに使える金等なかったからということのようである。
要するにハングリー精神の欠如した、やわな日本人力士に問題があるのである。
大相撲では伝統の美学からは程遠い行為が後を絶たない。
今回の野球賭博は問題外にしても、朝青龍の優勝した場所での土俵上でのガッツポーズ、 後援者に対する暴行事件、巡業を休んでモンゴルでサッカーに興じる事件等々あった。ジャーナリストの江川紹子氏は「あれぐらいは良い。
そんなに伝統とか格式を言うなら外国人を入れるな」とテレビで言っていた。たいしたことではないと物分りの、良い人がこれを許していると、小さいことを許し、許されているうちに知らず知らず、大相撲が何か別種の格闘技に変わってしまうような気がしてしょうがない。
伝統の美学大相撲は厳しくあってこそ国技なのである。大鵬の気持ちを考えると今の大相撲は、国技とは名ばかりである。

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