与謝野鉄幹の詩

久しぶりにサラリーマン時代の仲間数人と新年会を開いた。みんな80歳を過ぎているが、全員極めて健康そのものである。「健康な肉体にこそ、健全な精神が宿る」と言うが、それはまさに真理だと証明しているかのような連中の集まりである。曰く、今の時代は何でもかんでも「議論して決めなさい」という流れになっているが、我々が育ったころは、人間に本当に必要な教育は、読み書き算盤、次に修身と決まっていた。ところが今では、道徳教育は軽視され、正式な教科となっていないのではないか。道徳は子供たちに対する上からの押し付けだから、教育としてよくないという事らしい。日本人は言葉に騙されやすい国民だから「押しつけ」と聞くと、反射的にまずいと思ってしまうようだが、大きな間違いだ。弱い者をいじめては駄目だとか、男は女を殴っちゃいけないとか、大勢で一人をやっつけてはいけないとか、こういったことには論理的な理由など全く無い。本当に大事な価値は、小さいころに親なり先生が「形」として無理やり押し付けて、教え込むことが大事なのだ。高校野球の監督が、部員に暴行したとたびたび新聞に載るが、こんなものは程度の問題で、かの有名な木内監督には、さんざんバットで尻を殴られたが、チリほども恨んでいない。鍛えてもらったお陰で、今も健康な肉体でいると感謝している等々。甲論乙駁云々。
今にして思うことは、つまりある年齢になると、今までとは逆に、健全な精神が老いてゆく肉体を守ってくれている。健全な精神というものは、要するに老いて益々盛んになる気力の問題であると思う。具体的に言うならば、年齢にかかわらず、見たところ年寄りじみている人は、話しかけてみると気力を失っている人間でしかない。逆に気力の溢れた人はその年にもかかわらず、いかにも気力に満ちた人間なのかがわかる。その気力を育み培うためにこそ、健康な肉体が必要というのが人間にとっての公理に他ならないのだと思う。そこにこそ、若いころから意識して、肉体を鍛えることに腐心してきた人生的な意味が初めてあると思う。
最近の少子化問題にも話題が沸騰した。独身で一生を終わる人が増えているようだ。結婚を奨励する政策が重要だろうという事になり、酔いも回り始めて仲間の一人が歌いだしたのが、与謝野鉄幹の「人を恋うるの歌」である。思わずみんなで合唱した。
妻をめとらば歳たけて、
眉見麗しく情けあり、
友を選ばば書を読みて、
六分の侠気、四分の熱」
まさに、熱いひとときの新年会の出来事であった。

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