危険な兆候

産業革命後の世界は、資本や技術を「生産活動」で生み出すことを可能にした。その結果、「生産者一人当たりの生産量」が飛躍的に拡大した。いわゆる資本主義である。ここでいう資本とは、例えば道路や鉄道、港湾や空港といった交通インフラ、工場、機械設備、運搬車両などの建設はもとより、それらを利用して生産活動を行う事である。高速道路という資本は、資本の蓄積の結果であり、その高速道路を大型トラックが走り生産活動を行い、運送サービスを生産性高く提供する。高速道路という利便性の高い資本を利用することにより、運送会社の生産者(ドライバー)の「運送サービスの生産量」は、飛躍的に拡大し「生産性」が上昇する。これが経済成長である。このように資本を拡大してこそ国家の繁栄と国民生活の向上が図られるのである。現在、最も技術の水準の高い資本の蓄積は、原子力の有効利用であろうと思う。エネルギー政策は国家の基本である。電力が瞬時でも途絶えれば、国民生活は酸欠に陥り、恐慌をきたす。安価で安定的な供給が滞れば、国民経済は活力を失い、衰弱に向かう。エネルギーが国家の血液と呼ばれる所以である。
今、原発を巡って世間では議論が活発であるが、文明を支える要因の原発を否定してしまうのは、軽率を超えて危険な話だと思う。ある期間を想定して、その間、我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保障するエネルギーを複合的に、いかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊饒な生活を求めながら、福島第一原発の崩壊を背に、原子力そのものを否定することが、ある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は、結果として己の首を絞めることになりかねない。人間の進化発展は、他の動物には及ばない人間のみによる様々な技術の開発改良によってもたらされた。その過程で数多くの失敗もあった。しかも日本は、欧州と違って、単独で電力を低コストかつ安定的に供給し、脱炭素とも両立しなければならない。太陽光や風力などの再生可能なエネルギーを主力とする方針らしいが、風力や太陽光は風況や日照次第で大きく変動する。日本は自国のエネルギー資源を持たないのであるから、原子力の平和利用をエネルギー政策の基幹に据え、アメリカと共に世界の原発技術をリードしてきたのであって、世界最高の技術を生かしながら、先進的な技術を保持し、世界に貢献するべきなのである。
そもそも太陽系宇宙にあっては、地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で放棄していいのか。そうした行為は人間が進歩することによって、文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。
人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的に見えるが、大きな間違いである。ただ一つ言えることは、世界最大の火山脈の上にあるという、脆く危険な日本の国土の地政学的条件を考えずに、ことを進めてきた原発当事者達の杜撰さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは、無知に近い野蛮な話だと思う。
豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は、社会全体のとって危険なものでしかない。

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