感情論

「国民感情と相いれない」「住民感情としては許容できない」「法的には問題ないとしても庶民感情としては許せない」。最近の新聞やテレビには、この種の言葉が毎日のように登場する。「感情論」が氾濫して、しかもそれが単純に正当化されているのである。少し前まではこんなことはなかったような気がする。役所や会社の会議の席でも、あるいは言論界の論争でも、友人同士の戯れの議論においてさえも、「それは感情論だよ」と言われれば、大いに恥じ入ったものだ。だから言われた方は、「いや、決して感情論ではない。こうゆう客観的データがあって、こうゆう理論でこうなる」と懸命に反論したものだった。
何時の頃からと言われるとはっきりしたことは言えないが、どうも東日本大震災の後の頃から、原発反対や死刑廃止、LJBT、夫婦別姓、男女共同参画社会等が大きく取り上げられた後のこと頃からかと思うが、「感情論」が客観的論理を押し退けるようになり、新聞やテレビでは勿論、国会の議論や官庁などの主催する公聴会でも、「あなた方のいうのはただの理屈だ。住民感情、庶民目線としては納得できない」と主張する人が多くなったように思う。
最近でも大阪・北新地で起きた放火殺人事件は衝撃的だった。犯人は京都アニメーション放火殺人事件などを参考にしたらしい。死刑反対を主張する人たちは「「厳罰化では犯罪をなくせない」「犯人を社会から孤立させてはいけない」というが(産経新聞)、それではどうすればいいのか何も対案を示さない。何の落ち度もないのに非業の死を遂げた犠牲者より、犯罪者の「人権」を重く見る「感情論」は全く理に適っていない。
「国民感情」とか「住民感情」とか言っても、誰がどのようにして大勢の感情を図ればよいのかわからない。中でも困るのは「庶民感情」という流行語だ。「誰が庶民なのか」という定義がないから、調べようもない。新聞やテレビで「庶民感情」の分からないと言われている対象者は、政治家、公務員、医師、企業経営者、消費税に賛成している人、原発賛成者、土地所有者、金持ちと言われる人たち等が挙げられる。要するに、それぞれの問題に不満を持って怒っている人が「庶民」なのだ。これでは何事でも「庶民感情として許せない」となってしまう。要するに「庶民感情」という言い方は、嫉妬という人間の劣情を煽り易いのである。
そもそも考え方の基本は、感情を押し殺して客観的合理性、つまり「科学性」を尊重する点にあると思う。より普遍的なものとして、客観的合理性を基礎とする科学を、判断基準とするのが正しい。
これからの豊かな社会では、人間の感覚感情が益々重視されるようになるかも知れない。したがって、一部の人々が感情論を政治的に利用する危険は大きい。これからは政治家やメデアは特に「庶民感情」というような曖昧な表現は避けて、はっきりと「私の感情としては」というべきであろうと思う。