スポーツの日ではない「体育の日だ」

柔道がオリンピックに採用されてから、我々が柔道に対して持っていた武道としての精神が、大きく失われてしまったような気がする。柔道の国際試合を見ていると、まるで柔道着を着た格闘技のような印象を受ける。国際化の深まりが柔道のスポーツ化を促し、淵源である武道の精神から遠ざけてしまった。剣道、柔道、弓道、相撲のように、武道に源を発する競技については、礼に始まり、礼に終わることを重要な要素としてきた。相撲は神代の昔に生まれた奉納相撲と、戦場の組内から生まれた武術という性格を併せ持っている。
去年から「体育の日」がスポーツの日に変わった。したがって、この名称変更には強い違和感がある。体育とは日本人の感覚からすれば、剣道や、柔道や、弓道、相撲も含まれる。これらはスポーツという軽い表現では、なじまない。これはそこに含まれる、体現される身体と精神に関する日本人の伝統的な見方である。武道はスポーツの要素もあるが、それだけではなく、身体を鍛え、技を磨くことを通じて、精神や、人格を高めることを重視する。
「スポーツ」という言葉を用いた場合、この部分が失われてしまうような気がしてならない。スポーツはやはり純然たる競技、あるいは娯楽といった意味合いの方が強く、精神や人格の修養が主といったものとは大きく違う。
身体を鍛え、ワザを磨くことは精神修養にもつながる、という見方は武道の背景にある。さらに動作や姿勢を整えることも大切である。行儀作法や礼儀作法。立ち居振る舞いの美しさを強調する日本文化の基盤にあるのも、身体的動作の鍛錬や洗練が、精神修養に結び付くというのと同様の考え方である。したがって、スポーツの日というのは、我々日本人には馴染まない。やっぱり「体育の日」だ。日本人が大切にする価値とは何か、についてスポーツの日と決めた人達に聞いてみたい。

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