木田余について(5)

昭和37年10月、土浦に進出した日立電線は、木田余の赤池の北側台地に建設を着手した。 土地の面積約60ヘクタールという広大なもので、日立グループの工場の中でも大規模工場の一つである。工場の建家も、それまでの工場の常識をはるかに超えて、一棟の大きさが100メートル×240メートルという巨大なものだ。 その巨大建家が3棟、事務所、食堂、関連会社用の小規模の建家等々で、堂々たる威容を今も保っている。 しかも設置する製造設備は、超大型なものばかりで、鋳造施設、切断機、圧延設備など、特にドイツ製(クルップ社、シエレーマン社)の最新鋭設備で、世界初の無酸素銅を大量生産するものであった。 数十人のドイツの技術者達が市内の旅館に泊まり込みで取り付け作業をしたが、彼等は休日には、市内の食堂を食べ歩きして歓迎され、日本食の魅力に感激していた。特に焼き鳥と日本酒を好んでいたようであった。
従業員は昭和38年には700人程度まで増えていたと思う。 宿舎は東山団地(板谷町)に独身寮1棟(120名収容)、世帯者用7棟(16戸収容)、殿里団地に70名収容の独身寮1棟、16世帯収容の建家2棟。 収容しきれない従業員は、木田余地内の有志の方々に、宿舎を提供してもらっていた。 そのころ、地元の人達に大いに歓迎されたのは、従業員用に建設したプールを、地元の要望で多くの市民にも開放したことだった。運動会や盆踊り大会も地元を巻き込んで盛大に行われた。
東山団地も、殿里団地も当時の木造建家中心の環境の中では、際立って目立った建築物であった。 水戸方面から6号国道を走ってくると、土浦市へ入ったとたん、東山団地の4階だてのビル群が目に飛び込んだ来て、土浦市へ来たと実感できると大勢の市民に言われたりもした。 全盛時には、日立電線土浦工場の従業員は1300名を超え、生産量も月額3000トンを超えた。 通称国体道路側に水田があったが、木田余区画整理事業の時に、区画整理事業地からの残土で埋め立て優良宅地として変貌させた。工場の未利用地は、積極的に緑化されて、松や、杉、檜、のほか雑木が計画的に残されていて、野生の動物の棲みかとなっている。 キジ等は今なお相当数棲みついていると思われる。 日立電線土浦工場は毎年正月と夏の安全祈願祭は、木田余の鹿島神社で執り行っている。